3 出エジプトの時代   3 出エジプトの時代 


   エジプトで奴隷として働いていたヘブライ人は、モーセの導きによりエジプトを脱出したが、 エジプトの王は奴隷を失うのを恐れるあまり、色々な妨害をし、最後に海にのまれて死んだ。
 出エジプトの出来事について、聖書とエジプトの考古学の資料を突き合わせていくと、 旧約聖書に記載されている奇跡が真実であったことが分かる。

3-1 ヨセフの頃

出エジプトの物語の出発となった出来事は、 エジプトに奴隷として売られたヘブライ人のヨセフがエジプトで大臣となり、 カナンの地に飢饉があった時、ヤコブ一族が息子ヨセフを頼りエジプトに移住したことである。
 創世記41〜46章には、次のように書いてある。
@ 王は不思議な夢を見たが、誰も解けなかった。
A ヨセフは王から話しを聞き、
・神が王に幸いを告げる。
・最初の7年間豊作があり、その後7年間飢饉があり、国を滅ぼすだろう。
・豊作の間に食料を蓄え、飢饉に備える必要がある。
と答えた。
B 王と家来は感心し、王はヨセフを大臣とした。 ヨセフは将来起きる7年の飢饉に備えて最初の7年の豊作の間に食料を備えた。
C 夢の通り、7年の豊作の後、飢饉があった。 ヨセフは食料を求めた自国民や他国民に、蓄えた食料を売った。
D この飢饉は、ヤコブ一族が住んでいるカナンの地にも及んだ。
E ヤコブの息子達がエジプトに食料を買いに行った時、 自分達の兄弟ヨセフがエジプトで大臣になっていることを知った。 ヨセフの助言で、ヤコブ一族がエジプトに移住した。

ヤコブが移住した時代は古代エジプト史の第2中間期と思われる。 この時、エジプトはナイル川中流のテーベ(現在のルクソール)にある第17王朝と、 ナイル川下流デルタ地帯のアヴァリスにある第15王朝(ヒクソス王朝とも言う)に分裂していた。 ヨセフはこのヒクソス王朝の初期の頃に大臣になったと思われる。
 ヒクソスは外国の支配者を意味する。アジア系の人々がエジプトの東部デルタ地帯に定住し、 しばらくした後、アヴァリスという防備された都市を建設しヒクソス王朝を作った。 彼らは元々その地に住んでいたエジプト人の言語や宗教を尊重し、 政府ではエジプト語が用いられた。 また、エジプトの法律や風習がそのまま採用されたものと思われる。

アヴァリスは第17王朝に続く第18王朝の最初の王イアフメス1世に攻撃され陥落したが、 彼はその後アヴァリスに宮殿を建築した。アヴァリスが陥落した第18王朝の初期から、 第20王朝初期までの王の名前と主な建築事業の一覧表を表-3-1に示す。
 いま、出エジプトが第19王朝のメルエンプタハの晩年にあったと仮定し、 それから430年前のB.C.1632年を基点とする。 表-3-1に、この基点からの年数を経過年として記入してあり、その右欄に、 その経過年におけるヘブライ人の推定人口を記入してある。(注1)
ここで
@ ナイル川下流のデルタ地帯で起きた7年に及ぶ飢饉は、 遠く離れたカナンの地でも起きたことから、 エジプトがナイルの賜物であることを考えると、 当然ナイル川中流のテーベでも起きたものと思われる。 聖書に「また、世界各地の人々も、 穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。 世界各地の飢饉も激しくなったからである」とあるので、 ヨセフは第17王朝にも食料を売ったと思われる。 恐らく第17王朝は何故ヒクソス王朝に食料があるのかを尋ね、 ヨセフの物語を知り、ヨセフに恩義を感じたものと思われる。 また第18王朝最初の王イアフメス1世は、 第17王朝最後の王カモセの弟又は恐らく甥であり、 彼は歴代の王からヨセフの伝説を聞いていたものと思われる。
A ヤコブの家族はエジプトに移住した後も家畜を飼っており、 第18王朝にとって重要な仕事とは当然思われなかった。
B 表-3-1に示す通り、 第18王朝のイアフメス1世が王になった直後のヘブライ人の人口は約250人であった。
以上より、アヴァリスが第18王朝に攻撃され陥落した後、 ヤコブの子孫は捕虜(奴隷)となっても、 ひどい仕打ちは受けなかったものと思われる。

3-2 国民に警告する王

第18王朝の最後の王はホルエムヘブ(在位期間28年)であった。彼は、元は民間の軍人であり、 アクエンアテンの時に総司令官になった。
 彼が王となった時、エジプトは内憂外患の状態であった。
 国外では、トトメス1世以降軍事遠征し、 維持していたシリアの大部分をヒッタイトに奪われており、 ツタンカーメンが死ぬ頃、カナンの地でヒッタイトと戦い、敗北していた。
 国内では、アクエンアテンの宗教改革の時、伝統的なアメン神殿が閉鎖され、 神殿への献品が国庫に納入されたが、 この頃から汚職が横行した(この宗教改革は途中で挫折した)。
 また表-3-1に示す通り、ヘブライ人はアクエンアテンの初期に約2.6万人いたが、 ホルエムヘブが王となった頃にはその倍近い約4.8万人おり、目に見えて増えており、 エジプト軍を脅かす人数となっていた。

ツタンカーメンの死後、アイ(在位期間約4年)が王になる時、 アイはツタンカーメンの未亡人のアンケセンアメンと結婚する予定であった。 しかしアイが恐らく彼女の祖父であったため、彼女はこの結婚を嫌い、 敵国ヒッタイトの王スピルリウマ1世に 「あなたの息子を私に送って頂き、私と結婚してエジプトの王家を継いで欲しい」 という内容の手紙を送る事件があった。
 スピルリウマ1世は、最初この話を出来過ぎていると疑い調査したが、 彼女の苦境が本当と分かったので、彼の息子ザンナンザをエジプトに送った。 だが、ザンナンザは国境を出るとまもなく殺された。 これはホルエムヘブの仕業ではないかと言われている。
 ホルエムヘブは国外においてヒッタイトに多くの土地を奪われ、 戦いに負けている中でこの様な事件が起きたため、 ヒッタイトと同じアジア人のヘブライ人がヒッタイトと手を組めば、 ヘブライ人はエジプト軍を脅かす人数となっていたので、 大変なことになると感じたものと思われる。
 そのため、彼が王になった時「ヘブライ人という民は、今や、我々にとってあまりにも数多く、 強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。 一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」 (出エジプト1:9後半〜10)」と国民に警告したと思われる。
 ホルエムヘブ以降の王は彼の警告を聞き、出エジプトが起きるまで、 ヘブライ人に重労働を課したものと思われる。

ホルエムヘブは今では第18王朝の最後の王に分類されるが、
彼は、王族ではなく、民間の軍人であったこと
彼には子がなく、彼の軍人時代の後輩で、彼が王になった時に大臣にしたラメセス1世を、 自分の後継者に指名したこと
から、彼に続く第19王朝の王(ラメセス1世、セティ1世、ラメセス2世、メルエンプタハ等)は、 彼を自分達の系列の創始者と見なしていた。従ってエジプト人や寄留の外国人(ヘブライ人ほか) も、彼を新しい王の系列の創始者と見なしたと思われる。
 出エジプト1:7〜9前半に「ヘブライの人々は子を産み、おびただしく数を増し、 ますます強くなって国中に溢れた。 そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。」 とあるが、この新しい王はホルエムヘブであると思われる。またホルエムヘブは、 エジプトの食糧危機を助けたヨセフの一族であるヘブライ人を虐げたことから、 出エジプトの記者は、「ヨセフのことを知らない」と表現したものと思われる。

3-3 ピトムとラメセスの町

ホルエムヘブは国内問題に対処するため、 宗教においてはエジプトの伝統的なアメン神への復帰を促進し、アテン神殿を破壊した。 また汚職を撲滅するため、贈収賄罪に対し厳罰を適用した。 有罪となった役人は鼻をそがれ、職から追放された。
 エジプトのルクソール博物館に、 着席したアトム神にひざまずくホルエムヘブを形作る彫刻がある。 アトムは創造の神であると同時に日没の神であり、また王家の谷の墓で、 悪人の罰を監督する神として描かれている。
 ホルエムヘブの汚職役人に厳罰を課す姿はアトム神のイメージに重なる。
国内問題の解決により、 ホルエムヘブはエジプト国民及び彼に続く第19王朝の王から大きく尊敬されたものと思われる。
 しかしヘブライの人々は、ホルエムヘブにより重労働を課せられ、 恐らくこの頃、王のために物質貯蔵の町の1つを建設した。 この町の名は、アトムの家、すなわちPi-Atum(ピトム)と言われた。
 ホルエムヘブの死後、ラメセス1世が王となった。 ヘブライの人々は、恐らくこの頃、王のために別の物質貯蔵の町を建設した。 この町の名はラメセスと言われた。

なお後のラメセス2世は多くの建築事業をしたが、前の王の業績をねたみ、 前の王の記念碑や彫刻の名を書き換えることもした。 ラメセス2世は、ラメセスの町の近くにラメセスの家、すなわちPi-Ramesses(ペル・ラメセス) という新首都を建設し、遷都した。

3-4 モーセの誕生

これらの町の建設目的が物質貯蔵だったため、町の規模はそれほど大きいとは思われず、 従って建設期間は数年程度だったものと思われる。 ラメセス1世の在位期間はわずか2年だったため、ラメセスの町の建設が完了したのは、 ラメセス1世の息子セティ1世(在位期間13年)の時になった可能性もある。
 出エジプト1:11後半〜14には「ヘブライの人々はファラオの物質貯蔵の町、 ピトムとラメセスを建設した。しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、 エジプト人はますますヘブライの人々を嫌悪し、ヘブライの人々を酷使し、 粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。 彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた」とある。
 この後モーセが誕生したが、この文章からは、ラメセスの町の建設完了とモーセ誕生との間に、 ある程度の期間があったと読める。その期間は概略10年と思われる。
 すると、モーセが誕生したのは、セティ1世の治世概略10年頃と思われる。 この頃、セティ1世には長女ティアと次男ラメセス2世がいた。
 モーセ誕生の少し前、恐らくセティ1世より「(ヘブライ人で)生まれた男の子は、 1人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ」(出エジプト1:22) という命令が出された。モーセの両親は3ヶ月の間赤ん坊を隠していたが、ついに隠しきれなくなり、 アスファルト等で防水したパピルスのかごに赤ん坊を入れ、ナイル川の葦の茂みに置いた。 その時、恐らくセティ1世の娘(王女)がこの赤ん坊を助け、 後にこの王女の子とした(出エジプト2:1〜10参照)。

3-5 ラメセス2世の時

モーセが成人した頃、同胞のヘブライ人がエジプト人から殴られているのを見て、 モーセは同胞を助けようと、このエジプト人を殺した。 このことがエジプトの王の耳に入り、王はモーセを殺そうとしたが、 モーセはミディアン地方に逃げた(出エジプト2:11〜15)。
 出エジプトには「モーセが成人した頃」と書いてあるだけでモーセの正確な年齢は記述していない。 しかし新約聖書には、イエスの死後、弟子のステファノがユダヤ人に逮捕された時にした説教の中で 「それはモーセが40歳の時の出来事であった」旨が記述されている。(使徒言行録7:23)。
 モーセはセティ1世の治世約10年頃に生まれたと想定されるので、 セティ1世の在位期間13年を考えると、モーセがエジプト人より同胞を助けた出来事は、 ラメセス2世の時代に起きたと言える。
 モーセがミディアン地方に逃げて「長い年月」が経てからエジプト王が死んだ(出エジプト2:23)。 出エジプトには「長い年月」と書いてあるだけで正確な期間は記述していないが、 「長い年月」という言葉から数十年と解釈できる。 ラメセス2世の在位期間は67年であり、 モーセがエジプト人より同胞を助けた出来事はモーセが40才の時とすると

    モーセのセティ  モーセのラメセス  エジプト人より同胞  その後ラメセス2世
            +          =           +
    1世時代の期間  2世時代の期間   を助けた時の年齢   が死ぬまでの期間



                                  その後ラメセス2世
  ∴ (13−10)    +   (67−1)   =   40       +
                                  が死ぬまでの期間



    その後ラメセス2世
  ∴           = (13−10)+(67−1)−40=29(年)
    が死ぬまでの期間

となり、「長い年月」と符合する。 なお、モーセのラメセス2世時代の期間をラメセス2世の在位期間−1としたのは、 セティ1世とラメセス2世の共同統治期間1年を考慮したからである。
 モーセはこの後、神よりヘブライの民をエジプトから連れ出すよう言われたので、 出エジプトはラメセス2世の死後に起きたと言える。
(右の写真はラメセス2世のミイラの写真
http://www.e-t.ed.jp/edotori39031/edotori39031004/index.htm より引用)

3-6 出エジプトの時

モーセはラメセス2世の死後、神よりヘブライの民をエジプトから連れ出すよう言われた。 モーセは神に命じられた通り、エジプトの王にヘブライ人をエジプトから去らせるよう語ったが、 これはモーセが80才、アロンが83才の時であった(出エジプト7:7)。
 モーセは少年時代、エジプトの王室で育てられたので、エジプトの暦、 すなわち現在のグレゴリオ暦に近い1年を365日とする太陽暦を知っていたと思われる。
 先にセティ1世(在位期間13年)の在位概略10年の時にモーセが生まれたと考えた。 この時よりメルエンプタハの治世の終わりまでを計算すると、 ラメセス2世の在位期間が67年であり、メルエンプタハの在位期間が10年であるから、 セティ1世とラメセス2世の共同統治期間1年を考慮し、(13−10)+(67−1)+10=79(年)となる。 これはモーセが神から召命を受けた時の80才という年に極めて近い。 モーセが誕生したのがセティ1世の在位概略10年の時と考えたことを考慮すると、 実質メルエンプタハの治世の最後に出エジプトがあったと言えるだろう。

(1) 建築事業の停滞
出エジプトの前後で、エジプトにはどの様な変化が起きたのだろうか。
表-3-1より次のことが読み取れる。
1) ホルエムヘブより前の第18王朝では、 王の趣向により大規模建築工事を多数行っている王もいるが、 小規模な建築工事しか行っていない王もいる。
2) ホルエムヘブ以降、メルエンプタハに至るまで、 在位期間が非常に短いラメセス1世を除き、大規模建築工事を複数行っている。
3) メルエンプタハよりすぐ後の3人の王は、小規模な建築工事しか行っていない。

このような変化が起きた原因として、次のことが言える。
@ ホルエムヘブより後のメルエンプタハ迄の王は、 ホルエムヘブによるヘブライ人に対する警告を聞き、 多くの建築事業を行って、ヘブライ人を虐待した。
A メルエンプタハの晩年に出エジプトがあり、 成人男子だけで約60万人の奴隷が国外に去ったため建築事業の大部分が出来なくなった。

なおメルエンプタハより後、 ラメセス3世の後に至るまでエジプトの経済は下降気味であったが、これは
約60万人の奴隷が国外に去ったため多くの建築工事が出来なくなった。
彼らへの食糧・衣服・その他の生活物質の供給や労働監督等が不要となった。
そのため、経済が落ち込んだとものと考えられる。

(2) メルエンプタハのミイラ
メルエンプタハのミイラは明らかに他の王のミイラと異なり、口の周りが白くなっており、 鼻と耳を結ぶ線より上の頭の部分は白い半透明のワックスがかかった様になっている。
 なぜこの様な白い物がメルエンプタハのミイラに付いているのだろうか。 それを知るため、ミイラの作り方を見てみよう。
(右の写真はメルエンプタハのミイラの写真
http://www.e-t.ed.jp/edotori39031/edotori39031004/index.htm より引用)
@ ミイラの作り方に関する2つの説
1) 遺体をナトロン溶液に漬けるという説
ヘロドトスの「歴史」に、ミイラの「その最も精巧な細工は次のようにして行われる。 先ず曲がった刃物を用いて鼻孔から脳髄を摘出するのであるが、 摘出には刃物を用いるだけでなく薬品も注入する。 それから鋭利なエチオピア石で脇腹に添って切開して、臓腑を全部とり出し、 とり出した臓腑は椰子油で洗い清め、 その後さらに香料をすりつぶしたもので清めるのである。 つづいてすりつぶした純粋な没薬と肉桂および乳香以外の香料を腹腔に詰め、縫い合わす。 そうしてからこれを天然のソーダに漬けて70日間置くのである。 それ以上の期間は漬けておいてはならない。 70日が過ぎると、遺体を洗い、上質の麻布を栽って作った繃帯で全身をまき、 その上からエジプト人が普通膠の代用にしているゴムを塗りつける・・・・」
「・・・・またソーダは肉を溶解してしまうので、後には皮膚と骨だけが残るのである」 (岩波文庫 松平千秋訳 ヘロドトス 歴史(上)P.212〜213)と書いている。

天然のソーダとはナトロン(主成分は炭酸ナトリウム)であり、粉末は白い。
上のヘロドトスの説明を言葉通り解釈すると、 内臓を取り出した遺体をナトロン溶液の中に漬ける、と解釈出来る。
 実際、肉を溶解し、後に皮膚と骨だけが残るようにするためには、 ヒイラギ等の木の葉を水酸化ナトリウム溶液(苛性ソーダ:ソーダ(炭酸ナトリウム) よりきついという意味)に漬けて葉脈標本(しおり)を作る時の様に、 遺体をナトロン溶液に漬ける必要がある。
 炭酸ナトリウムは水に溶け易く、強アルカリ性(pH約11)を示す。 炭酸ナトリウム溶液はタンパク質を腐食する作用があり、 溶液中に漬けられた遺体は身体の一部が溶けるが、体内に溶液が浸透すると、 細菌もタンパク質から出来ているため、通常の細菌は生育出来なくなる (一般微生物の生育可能 pH 値は3〜10である)。 定められた期間、遺体を溶液に漬けた後、取り出し、遺体が洗われる。

この他に、次の説が唱えられた。

2) 遺体をナトロン粉末で脱水させるという説
防腐処理するためには、魚の干物の様に遺体を乾燥させれば良い。 無水炭酸ナトリウムは吸湿性があり皮膚から水分を奪うため、 内臓を取り出した遺体の内部にナトロンを詰めた袋を入れ、 また遺体の外側をナトロンで覆う。
 定められた期間遺体を乾燥させたのち、 遺体の外部・内部よりナトロンを取り除き、体を縫い合わす。

A メルエンプタハのミイラの顔・頭についている白い物はナトロンか?
ナトロンの粉末は白い。そのためメルエンプタハのミイラの顔・頭についている 白い物がナトロンかどうか検討する必要がある。
1) 遺体をナトロン溶液に漬けるという説
エジプトは天文や測量が進んでいた国であり、穀物や金、 ぶどう酒などが王に納入されていた。 すなわち、それらは正確に重さや体積が計られていた。 よって、ナトロン溶液のナトロンと水の混合比は定まっていたものと思われる。 メルエンプタハ以外のミイラでは、ナトロン溶液が一部結晶化して、 ミイラに付着する事態は発生していないため、 メルエンプタハでもナトロン溶液が一部結晶化して、ミイラに付着するという事はない (また、ミイラが王の場合、ミイラの遺族はその時の王の一族であるため、 ミイラ作りの職人は外見がおかしいミイラを作らないと断言出来る)。

2) 遺体をナトロン粉末で脱水させるという説
メルエンプタハのミイラの、頭の上部を覆っている白い半透明状の物に注目しよう。 通常ナトロンは白い粉末のため、この様に半透明状になるためには、 一度水に溶けてその後水分が蒸発し、結晶となる必要がある。
 ミイラの頭の上部の白い半透明状の物は、写真で見ると厚さt=5〜10mmある。 ミイラの鼻と耳を結ぶ線より上の頭の部分を半径 r=10cmの半球で近似し、 表面積をSとすると、球の表面積が4πr2であるから、 S=2πr2となる。t=5mmとすると、この白い半透明状の物の体積Vは V≒S・t=2πr2t≒314(cm3) となる。 炭酸ナトリウムの密度ρはρ=2.53(g/cm3)であるから、 この白い半透明状の物の質量Mnは、これが炭酸ナトリウムであるとすると Mn=ρV≒794(g)となる。
 鼻孔から脳を取り出した遺体の頭蓋骨内には脳脊髄液が残っている。 ミイラは目と口を閉じているので、頭蓋骨内に残った脳脊髄液中の水分は、蒸発した後、 唯一大気に開放されている鼻孔より外に出て、全身を覆ったナトロンのうち、 鼻孔のすぐそばのナトロンに吸収される。
 第18〜19王朝の王のミイラを調べると、 少なくとも第19王朝以降のミイラは髪の毛が残っていない。 よって、メルエンプタハのミイラの、頭の上部の白い半透明状の物への水分供給は、 頭の皮膚すなわち頭皮のみとなる。 頭皮の厚さt1はt1=約4mmである。 平均的な男性の体内の水分割合は約60%であり、皮膚も同じ率の水分があるとすると、 ミイラの鼻と耳を結ぶ線より上の頭皮に含まれる水分の質量Mwは、 Mw≒2πr2t1・0.6≒151(g)となる(水の密度は、ほぼ1である)。
 メルエンプタハのミイラの、 鼻と耳を結ぶ線より上の頭皮の水分が全て放出されたとしても、 その5倍以上もある794(g)の炭酸ナトリウムを溶かすことは出来ない。
 故に、メルエンプタハのミイラの、頭の上部を覆っている白い半透明状の物は、 ナトロン(の結晶)ではない。

1),2)どちらの説でも、メルエンプタハのミイラについている白い物はナトロンではない。

B メルエンプタハのミイラの顔・頭にある白い物は死ろうにより出来た
メルエンプタハのミイラの顔・頭に白い物が出来た理由として、死ろうが考えられる。 死ろうは、死体が水中や湿った土中にあり、通気が非常に悪い時に発生する場合がある。 死体内の脂肪が変質し――脂肪のある部分が脂肪酸となり、 カルシウムやマグネシウムと結合して鹸化する――灰白色〜黄褐色に変化する。 硬さはチーズ状から石膏状まである。死体が水中にある時、 死後約1ヶ月から死ろうが始まり、死後約半年〜1年で全身に及ぶ。
 なぜメルエンプタハのミイラに死ろうが出来ているのか。死ろうは先に述べた通り、 (防腐処理していない)死体が水中または湿った土中にあった時に発生する場合がある。 エジプトの王が死後防腐処理をされず、湿った土の中に埋められた、という記録はない。
 聖書には次の通り書いてある。
「ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。 『さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。 あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい」(出エジプト12:31〜32)
「民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、 民に対する考えを一変して言った。『ああ、我々は何ということをしたのだろう。 イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。』 ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、・・・・」(出エジプト14:5〜6)
「エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、 ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた」 (出エジプト14:9)
「主はモーセに言われた。『なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。 イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、 海を二つに分けなさい。そうすれば、 イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、 彼らはお前たちの後を追って来る。
 そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、 エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。』」(出エジプト14:15〜18)
「主はモーセに言われた。『海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、 戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。』モーセが手を海に向かって差し伸べると、 夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。 エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。 水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、 1人も残らなかった」(出エジプト14:26〜28)
すなわち、メルエンプタハは紅海の水に飲み込まれ溺死した。 死体が恐らく約1ヶ月以上水中にあったため、メルエンプタハの死体に死ろうが発生した。

3-7 出エジプト後

(1) メルエンプタハの葬祭殿の石碑
メルエンプタハの葬祭殿には、歴史上初めてイスラエルに言及する石碑があり、 そこにはカナン他への言及と共に「イスラエルは荒廃している、種は空である」 という内容が書かれている。
ここで、
セティ1世はアビドスに葬祭殿を造った。 それは7つの至聖所を持ち、自分、プタハ神、ラー・ホルアクティ神、アメン・ラー神、 オシリス神、イシス神、ホルス神の7神に捧げられている。 彼はこの葬祭殿に歴代の王の名の一覧表を作ったが、 アテン神を唯一の神とする宗教改革を行ったアクエンアテンと彼に続くスメンクカラー、 ツタンカーメン、アイの計4人を嫌い、王の名の一覧表に含めなかった。
ラメセス2世は、 ヒッタイトに奪われたカデシュ等を取り戻すべくヒッタイトに戦いを挑んだが、 取り戻せなかった。彼は、このカデシュの戦いで勝利したようにレリーフを作成した。 また、その他の行為を誇張し、歴代の王の祈念碑や彫像を自分の名に替えた。

古代エジプトにはこのような慣習があるため、ある記念碑や碑文があっても、 それをそのまま信じないで、他の歴史的証拠から検証する必要がある。
 するとメルエンプタハの葬祭殿の石碑に関して、次の疑問が出てくる。 注2に述べる通り、イスラエルという名は出エジプトの時に、 神からヘブライ人に与えられた。 よって、メルエンプタハが晩年にモーセよりヘブライ人をエジプトから去らせるように、 と言われる時まで、イスラエルの名を知らなかった。 またイスラエルの名を知ったすぐ後に、彼は溺死した。 従って、この石碑は後の王が作ったものである。

さらに、その他の事項から、次の3点が指摘出来る。
イスラエル人が脱出する時、エジプトは大きな災害を被り、王が殺された。 王のミイラを見た時、他のミイラと異なる部分−死ろう−があった。
これほど大きな出来事にも関わらず、後の王は出エジプトの記録を残していない。
メルエンプタハの他の石碑より、イスラエル以外の言及は事実と思われる。

これらを総合的に考えると、この石碑は、後に王となった者により、 後世の人々がメルエンプタハと出エジプトが無関係であると思うように、 他の石碑の事実をうまく織り交ぜながら作られた物と言える。 その背景は、次の(2)セティ2世で述べる。

(2) セティ2世
出エジプトの時、メルエンプタハは紅海で溺死した。 その後を継いだのはアメンメセスであった。 最初の頃は、メルエンプタハの他の息子や大臣・宗教指導者も、 出エジプトの時に被った大きな災害により、イスラエルの神を恐れて、 静かにしていたものと思われる。 しかし、1年、また1年と時間が経つに従い、イスラエルの神への恐れが薄れ、 他方自分達が持つ歴史や宗教へのプライドが頭を持ち上げ始めたものと思われる。 彼らは何とかして自分達の敗北を消し去ろうと考えたものと思われる。
 このように考えている頃、アメンメセス(在位期間3年)が死んだものと思われる。 その後を継いだのはセティ2世であった。彼の誕生名はセティ・メルエンプタハである。 名前からすると、彼はメルエンプタハの皇太子(長男)のように感じられるが、 メルエンプタハのすぐ後を継いだのは、アメンメセスであった。
 なぜこの様な事が起きたのだろうか。聖書には次のように書いてある。
「エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。 『・・・・これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、 人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。 またエジプトのすべての神々に裁きを行う。・・・・」(出エジプト12:1、11後半〜12)
「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。 王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、 また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、 またすべてのエジプト人は夜中に起きあがった。 死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。」 (出エジプト12:29〜30)
 すなわち、メルエンプタハの長男(皇太子)は神により撃たれて死んだのである。 自分の長男が撃たれて死んだため、 それまでイスラエル人をエジプトより去らせなかったメルエンプタハも、 ついに彼らを去らせる決心をしたのである。
 するとセティ2世は誰か。彼に関する歴史的証拠は王になった後だけであり、 王になる前の記録は全く無い。 恐らく、メルエンプタハの息子でアメンメセスより若かった者が、 アメンメセスの次に王位に就き、 メルエンプタハの長男がイスラエルの神から撃たれた事を隠そうと、 大臣・宗教指導者の合意の元にセティ・メルエンプタハの名を名乗ったものと思われる。
 セティ2世は、後世の人々にメルエンプタハの後を継いだのは 自分であるかのように見せるため、アメンメセスの名前を随所で消した (もっともセティ2世の名前も後の王により所々で消された)。 またエジプトに60万人もの奴隷がいるかのように、建築事業に関する多くの要求を出して、 記録させた。しかし現実にそれ程多くの奴隷がいなかったため、 物理的な事業は殆どされていない。
 恐らく、セティ2世はメルエンプタハが出エジプトの時に死んだ事を隠そうと、 他の石碑の事実をうまく織り交ぜながら、 さもメルエンプタハがイスラエルに勝利したかのように、 メルエンプタハの葬祭殿の石碑に記述したものと思われる。

天体現象や火山の噴火など自然の考古学的資料は、人間の意図が入らないため、 証拠能力が高いが、文書や絵画などの考古学的資料は人間の意図が入るため、 色々な資料を集め、様々な角度から検討し、総合判断する必要がある。

3-8 神の奇跡

以上述べた通り、出エジプトの出来事は、考古学の証拠で裏付けることが出来る。 すなわち、出エジプトは歴史的事実である。そのことは、神がモーセに、
「・・・・そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。・・・・」
と言われたことが真実であること意味している。



(注)

1. エジプトに行ったヤコブの家族の子孫が出エジプトの時までどう増えたかを推測するため、 創世記46:8〜27に基づき、エジプトに行ったヤコブの家族の人数(男性のみ) をまとめた一覧表を表-3-2に示す。
 ヤコブにはレアとラケルの2人の妻がおり、彼女達には各1名召使いがいて、 ヤコブの子を計12名産んだ。ヤコブの子は各々妻をめとり、計53名の息子をもうけたが、 2名はエジプトに行く前に死んだため、 エジプトに行ったヤコブの子の息子はヨセフの息子を含めて計51名である。
 イスラエルの人々がエジプトを脱出する時、出エジプト12:40に 「イスラエルの人々がエジプトに住んでいた期間は430年であった」とあり、 同じく12:37には「一行は妻子を別にして壮年男子だけでおよそ60万人であった」とある。
 今、一世代を平均25年と仮定し、最初51人の結婚適齢期(成人してから30才頃まで) の男性(及び同数の女性)がおり、彼らが全て結婚して、 成長期の子供の死亡も考慮して一世代当たり平均1.698倍に人口が増えたとすると、 次に示す通り430年後には約46万人の結婚適齢期の男性(及び同数の女性) がいることになる。
  総世代数  =430/25=17.2(世代)
  51×1.69817.2=459,725≒46(万人)
ヤコブの子孫は、食料が豊かにあるエジプトで、 ヨセフのことを知らない新しい王が出て来るまで、おびただしく数が増えた (出エジプト1:6)。
ヨセフのことを知らない新しい王が出て来てヘブライの人々を虐待しても、 彼らは虐待されればされるほど増え広がった(出エジプト1:12)とあるので、 人口増加率はほぼ一定と仮定して問題ないと思われる。
 結婚適齢期の男性の親が全て生きていれば、 彼らの人数は結婚適齢期の男性の1/1.698となる。 近代的医学がなかった当時の平均寿命は、今日と比べて短かったため、 結婚適齢期の男性の親の生存数を、彼らが結婚適齢期であった時の人数の半分とする。 すると結婚適齢期の男性の親の人数は結婚適齢期の男性の人数の約3割 (≒1/(1.698×2) )となるので、 430年後の成人男性の数は結婚適齢期の男性の祖父を無視すると、 459,725×1.3=597,643≒60(万人)となる。
 よって、ヤコブの家族がエジプトに着いてからt年後の人口Pは 概略次式で示すことが出来る。
  P=1.3×51×1.698(t/25)

2. サムエル記下7:23において、ダビデは 「また、この地上に1つでも、あなたの民イスラエルのような民がありましょうか。 神は進んでこれを贖って御自分の民とし、 (イスラエルという)名をお与えになりました・・・・・・ 御自分のために、エジプトおよび異邦の民とその神々から、 この民を贖ってくださいました・・・・・・」と言っている。
 アブラハムはヘブライ人であり(創世記14:13)、 エジプトに売られたヨセフも自らをヘブライ人と言っている(創世記40:15)。 モーセが神からイスラエルの人々をエジプトより導き出すように言われた時、 初めて神はアブラハムの子孫に対して「イスラエルの人々」という名を用いた (出エジプト3:9以降)。
 従って、出エジプト記において、 モーセが神から召命を受ける前に記述されている「イスラエルの人々」または 「イスラエル人」という名称は、正確には「ヘブライ人」または「ヘブライの人々」 であったと言える。
 出エジプト以降、人々の間で、 イスラエルの人々またはイスラエル人という言葉が使われたため、 出エジプトの物語が口承で子孫へ伝わる間に、あるいはバビロン捕囚後の聖書編集の時に、 元のヘブライの人々またはヘブライ人という名称が、 イスラエルの人々またはイスラエル人という名称に替わったものと思われる。


表-3-1 古代エジプト第18〜20王朝初期の王

王朝 名 前 在位
期間
治世 経過年 ヘブライ
人の人口
建築事業 備  考
18 イアフメス1世 1570〜1546 24 62 246 アバリスの宮殿。アビドスの複数の神殿 アヴァリスを攻撃し、陥落させる。エジプト全土統一。
アメンヘテプ1世 1551〜1524 27 81 369 カルナク神殿の増築工事。多くの古代神殿の修理復興 治世初期にリビアで反乱があったが、大部分は平和な時であった
トトメス1世 1524〜1518 6 108 653 カルナクのアメン神殿の増改築工事他多数 ユーフラテス川まで軍事遠征した
トトメス2世 1518〜1504 14 114 741 テーベのShespet-ankh神殿他 体が弱い王であったが、ヌビアとパレスチナに軍隊を送った
ハトシェプスト 1498〜1483 15 134 1,132 葬祭殿、多くのカルナク神殿の修理他 幼トトメス3世の摂政となり、古代エジプトで最初の女王として統治した
トトメス3世 1504〜1450 54 128 997 エレファンティン他で多数神殿建設 古代エジプトのナポレオンと呼ばれた。パレスチナへのエジプトの支配を確立した
アメンヘテプ2世 1453〜1419 34 179 2,937 ギザの神殿、カルナクのアメン神殿他 治世前半はヌビア・シリアに軍事遠征したが、後半は平和であった
トトメス4世 1419〜1386 33 213 6,034 カルナク神殿の方尖塔追加他 夢の碑文(スフィンクス像の予告)が有名
アメンヘテプ3世 1386〜1349 37 246 12,137 カルナク神殿全面改築。テーベの葬祭殿。Malkataの宮殿他 外国貿易及びヌビアの金山から多くの利益が出た。 建築趣味があり、数多くの建造物を残した
アクエンアテン 1350〜1334 16 282 26,014 新首都アケト・アテン。カルナクのアテン神殿 アテンを唯一の神とする宗教改革を行い、アケト・アテン(現在のアマルナ)に遷都。 アイの娘と結婚
スメンクカラー 1336〜1334 2 296 34,993   アテン神とアメン神の間で心が揺れ動いた
ツタンカーメン 1334〜1325 9 298 36,507 カルナクとテーベの神殿への増改築工事他 メンフィスで戴冠式を行う。宰相アイと総司令官ホルエムヘブが再任し、政府を握る。 アメン神崇拝に戻る動きがあった。ヒッタイトに多くの領土を奪われていた。 晩年にヒッタイトと戦ったが負けている。
アイ 1325〜1321 4 307 44,172 ホルエムヘブの強奪にり、アイの建物事業の殆どは識別出来ない アクエンアテンの時、宰相となり、アテン讃歌を残した。 彼が王の時、名目上は、アクエンアテンの宗教政策を継続した。
ホルエムヘブ 1321〜1293 28 311 48,077 多くのアメン神殿の再開と修理他 アクエンアテンの時、総司令官になった。王になった時エジプトは内憂外患の状態。 彼は国内問題に対処した。アメン神への復帰を促進し、アテン神殿を破壊。 また汚職役人には厳罰で報いた。
19 ラメセス1世 1293〜1291 2 339 86,990 カルナクのアメン神殿への増築工事他 王の血筋ではなく、職業陸軍士官。ホルエムヘブより王位を譲られる。
セティ1世 1291〜1278 13 341 90,754 アビドスの、7神を記念する葬祭殿と父に捧げた神殿。テーベの葬祭殿他 アジアの町のいくつかを取り戻す。後にヒッタイトと戦う。建築活動にも力を入れる。 アビドスの王名表を作ったが、アマルナ王朝(注4)は除いた。
ラメセス2世 1279〜1212 67 353 117,013 新首都ペル・ラメセス。アブ・シンベル神殿。6つ以上の葬祭殿他 カデシュでヒッタイトと戦い、その後、平和条約を結ぶ。建築に力を入れる。 ペル・ラメセスへ遷都した。
メルエンプタハ 1212〜1202 10 420 483,578 メンフィスの王宮。テーベの葬祭殿他 出エジプトの時の王と考えられる
アメンメセス 1202〜1199 3 430 597,643 自分の墓以外、建築工事は殆ど存在せず  
セティ2世 1199〜1193 6     少数の神殿の増築工事 建築事業に関する多くの要求を記録したが、実際に建築されたものは僅かである。
サプタハ 1193〜1187 6     記録は殆どない 王位に就いた時、未成年であった。足が変形しており、短命であった。
タウセルト 1187〜1185 2     テーベの葬祭殿。他は僅か エジプト古代史上、二人目の女王
20 セトナクト 1185〜1182 3       エジプトのいくつかの都市はアジア人により包囲されていたが、それを解放し、 神殿を再開した
ラメセス3世 1182〜1151 31     メディネトハブの葬祭殿。カルナクの小さい2つの神殿他 海の民及びリビアからの移民と戦い、多くの者を殺し、また多くの者を捕虜とした。

(注) 1. 在位期間はピーター・クレイトンの「ファラオ歴代誌」による。
2. 共同統治を行ったファラオの在位期間は、前後のファラオの在位期間が一部重複する。 また、ハトシェプストはトトメス3世の摂政となったため、 トトメス3世の在位期間と重複する。
3. 建築事業において、自分自身の墓は除いてある。
4. アクエンアテンからアイまでの期間をアマルナ王朝という。



 表-3-2 エジプトに行ったヤコブの家族の人数(男性)

ヤコブの子を
産んだ女性
ヤコブの子 ヤコブの子
の息子の数
ヤコブの子
の孫の人数
小計
レア ルベン 4   5
シメオン 6   7
レビ 3   4
ユダ 3 2 6
イサカル 4   5
ゼブルン 3   4
小計 6 23 2 31
レアの召使
ジルパ
ガド 7   8
アシュル 4 2 7
小計 2 11 2 15
ラケル ヨセフ 2   3
ベニヤミン 10   11
小計 2 12 0 14
ラケルの召使
ビルハ
ダン 1   2
ナフタリ 4   5
小計 2 5 0 7
合計 12 51 4 67

(注) 1. 創世記46:8〜27による。
2. ユダには5人の息子がいたが、エジプトに行く前に2人が死んだ。
3. レアの産んだ子6人とその子の息子・孫を合わせると31人となり、 ヤコブと娘ディナを含め、男女の総数は33名となる。
4. アシュルには妹セラがいた。よって、エジプトに行ったヤコブの家族は、 ヤコブの息子の妻を除けば、
    67 + (ヤコブ) + (ディナ) + (セラ) = 70(名)
となる。